渋沢栄一と高峰譲吉の想いを継ぐ
サンアグロの歴史は、1887 (明治20)年に、日本で初めて化学肥料を製造した東京人造肥料会社にまで遡ることができます。
それは、近代日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一と、後に世界的化学者となる高峰譲吉が中心になって生み出した事業でした。
日本初の化学肥料製造会社からサンアグロへ、脈々と続く農業への想い
明治維新を遂げた日本は、世界の近代国家の仲間入りをしようと躍起になっていました。さまざまな産業が興り、人口は急激に増加していましたが、農業は江戸時代と何ら変わらず、食料生産力は上がっていませんでした。
高峰譲吉は、1879(明治12)年に工部大学校(現在の東京大学工学部)1期生として首席で卒業し、翌年イギリスに留学します。そこで高峰はさまざまな近代産業に触れ、人造肥料(化学肥料)の工場でも実習をしました。高峰はその頃、化学肥料によって日本の農業の生産性を向上させたいという想いを持ったようです。
高峰は留学から帰国すると農商務省に入省。翌年の1884(明治17)年には、アメリカ ニューオリンズ万国博に事務官として派遣されます。博覧会の会場で化学肥料の材料である燐鉱石を見た高峰は、自費で10トンもの燐鉱石や燐酸肥料を買い付け、日本へ送らせました。
帰国した高峰は、農商務省技師として過燐酸石灰による農地での実地試験を行い、省内を啓蒙すると同時に、益田孝(三井物産初代社長)や渋沢栄一(当時、第一国立銀行頭取)に会い、日本でも化学肥料の企業化が必要だと進言します。
渋沢は、生家が畑作や藍玉の製造・販売、養蚕を行っていた農家であり、農業に強い関心を持っていたと言われます。渋沢は、「農業の盛衰は国家の盛衰に関わる。国家のために実に有益な事業である」と賛同し、益田孝らとともに発起人となり、日本初の化学肥料製造会社として東京人造肥料会社を設立しました。
その設立趣意書には「倶(とも)に世の鴻益(こうえき)を図らんとす」と書かれていました。“世の多くの人たちに広く利益をもたらそう”という想いが、この事業を生み出したのです。
東京人造肥料会社は、深川の釜屋堀(現在の東京都江東区大島)に工場をつくり、高峰譲吉が技術長として製造にあたりました。
しかし当初、経営は決して順調だったわけではありません。当時の農家は化学肥料を取り入れることに消極的で需要が伸びなかったうえに、工場の火災にも見舞われて赤字が続き、株主の多くが解散を唱えました。そんな中、渋沢は事業継続を主張して頑として解散に応じず、「諸君もし解散せば余は双手をもってこれを経営せん」と言ったと伝えられます。
渋沢は生涯に約500の企業に関わりましたが、東京人造肥料の経営には直接長く携わり、日本の化学肥料製造を牽引する存在に育てました。また高峰はその後アメリカに渡り、タカジアスターゼやアドレナリンを発見、世界的化学者となりました。
彼ら、国や人々の将来を考えたリーダーたちによって、日本に化学肥料が浸透し、日本の農業は大きく発展したのです。
東京人造肥料株式会社は、何度かの合併や社名変更を経て、現在の日産化学株式会社になっています。その肥料事業部門は、2001(平成13)年に独立。さらに2007(平成19)年、三井東圧肥料と事業統合して社名変更し、サンアグロ株式会社が生まれました。
事業統合は、出資する日産化学(株)、丸紅(株)、三井化学(株)、三井物産(株)の4社によって行われました。相乗効果の追求、技術の融合を進め、魅力ある製品群によってお客様に高い満足を提供できる総合肥料会社をめざして、サンアグロの歩みは続いています。
サンアグロ株式会社の沿革
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- 2007(平成19)年
- 日産アグリ(株)が三井東圧肥料(株)の全株式を取得し事業統合。サンアグロ(株)に社名変更。